ごきげんさまです。感護師つぼ(Twitter)(Threads)です。
看護師の可能性を拓くのに、すでに新しい道を切り拓いている方々の活動を知ることが第一歩だと思っています。
昨日、子供の保護者会で久しぶりに小学校に関わりました。そこで小学校校長先生になった看護師がいることを思い出したので、今回、門田先輩を取り上げます!!
門田 美惠子(かどた えみこ)
【所属・肩書】神奈川県厚木市教育委員会委員
【出 身】北海道砂川市立病院附属准看護婦養成所、慶應義塾大学医学部附属厚生女子学院別科コース
東京都立公衆衛生看護学院保健婦科、玉川大学文学部教育学科教育専攻、筑波大学大学院修士課程教育研究科カウンセリング専攻
人間総合科学大学大学院博士後期課
【臨 床】北海道砂川市立病院、慶應義塾大学医学部附属病院、ソニー厚木工場診療所
【教 育】厚木市立荻野小学校、厚木市立鳶尾小学校、厚木市立森の里小学校、 厚木市立毛利台小学校、厚木市立厚木小学校
厚木市立厚木小学校、厚木市立戸室小学校、厚木市立小鮎小学校、厚木市立荻野小学校、鎌倉女子大学家政学部家政保健学科
【経 験】神奈川県厚木市教育委員会委員
【資 格】看護師、准看護士、養護教諭
【実 績】瑞宝双光章
ユニークキャリア
今回は、医療界から教育界へとフィールドを移し、准看護師から小学校の校長へとキャリアを積み上げた門田 美惠子さんに焦点を当てます。彼女の経歴は、多様なキャリアパスの可能性を示すだけでなく、持ち前の情熱と学び続ける姿勢により、どのように変革を達成できるかを教えてくれます。
門田さんは北海道で育ち、准看護師としてキャリアをスタートさせました。3年の実務経験の後、正看護師への進学コースに挑戦。まず北海道で2年間勤務した後、東京の慶應義塾大学病院で1年働き、その経験を基に慶應義塾大学医学部附属厚生女子学院別科コースに進学しました。彼女にとって、慶應の看護学校での学びは人生に大きな影響を与え、その経験と出会いは今も彼女にとって大切なものとなっています。
看護師としての経験を深めた後、彼女は公衆衛生の重要性を認識し、保健師の資格を取得。その後、求人が見つからない中で養護教諭としての仕事に転向しました。彼女が赴任した学校では、医師の常勤がなく、救急処置などを自分で判断しなければならない状況に直面し、その大変さを痛感しました。
その後、友人が大学に進学すると聞き、自身も大学に興味を持つようになり、玉川大学の通信教育課程に入学。卒業論文では、心理学と「不登校」の問題に焦点を当て、不登校児童への支援をテーマに取り組みました。
大学卒業後、門田さんはさらなる学びを求めて大学院に進学。しかし、職場の合意が得られず玉川大学大学院の入学を断念し、働きながら通える夜間大学院の筑波大学を選びました。彼女は自身の研究実績を十分に活用し、研究計画の提出に際しては一般的な一枚の提出書類に加え、自身がこれまでに行った講演や講師を務めた経験を詳細にまとめた資料を提出しました。
彼女のストーリーは、持ち前の意欲と教育への情熱がどのように自己成長と変革を推進するかを示しています。門田美惠子さんは、医療から教育へと移行し、さまざまな分野で学びを深め、その結果、准看護師から小学校校長までという独自のキャリアパスを築き上げることができました。これは、自身の興味と情熱を追求し、絶えず学び続けることの力を示しています。
学校の管理職としてのエピソード
門田 美惠子校長の経験は豊富であり、養護教諭から教頭、そして校長へとステップアップした彼女の仕事への情熱と解決志向の姿勢は注目に値します。
教頭として働き始めた当初、門田校長は、問題が発生するとそれを自分の教材と捉え、学校全体を管理するという新たな役割に挑戦しました。子どもたち、親、教師、地域の問題に対応し、問題解決に取り組む中で、彼女は自身が必要とされていることを喜びに感じました。
後に校長として大規模な学校に赴任すると、彼女の解決志向の姿勢はさらに際立つものとなりました。永久歯の事故による対立を抱えていた学校と保護者との間に入り、具体的な対応を提示し、親の希望を叶えるための方法を伝え、わずか1ヵ月でその問題を解決しました。さらに、虐待の可能性がある子どもの両親に対しては、配慮と敬意をもって接し、児童相談所の専門家に協力を求めることで、親からの理解と協力を得ることに成功しました。
彼女は学校で起こる問題に迅速に対応することを重視し、その解決に向けて積極的に働きました。そして、それが彼女が経験した4つの学校で、「子どもにとっての楽しい学校・教職員は安心してしっかり働ける学校・家庭や地域から信頼させる学校」を創り上げるための鍵となったのです。
その後、門田校長は文部省から電話を受け、「養護教諭の現職から即教頭・校長という管理職への登用は多分全国初でしょう」と伝えられました。それは、彼女の経験と努力、そして絶え間ない解決志向の姿勢が認められた瞬間であり、門田校長自身のキャリアを象徴するエピソードと言えるでしょう。