ピラティス創設 男性ナース ジョセフ・ヒューベルトゥス・ピラティス

ごきげんさまです。感護師つぼ(@cango_shi)です。

看護師の可能性を拓くのに、すでに新しい道を切り拓いている方々の活動を知ることが第一歩だと思っています。

看護師で有名な方は、ナイチンゲールを筆頭に女性の方が多いです。世界的に最も有名な男性看護師は、ピラティスを創業したピラティスさんだと思います。現在、1700万人以上の人がやっていると言われるピラティスなので、実際には、看護師としての知名度よりも、トレーナーとしての知名度の方がある方ですが、彼の健康増進への想いは、看護であると思うので、是非とも知って頂ければ嬉しいです。

ジョセフ・H・ピラティス(ジョセフ・ヒューベルトゥス・ピラティス

【肩 書】トレーナー、ピラティス創設者
1883年12月9日 ~1967年10月9日

【臨 床】マン島拘留施設、ピラティス・スタジオなどなど
【資 格】なし(拘留中に、無資格で看護業務をする)
【専 門】ピラティス
【名 誉】ピラティス創業者

キャリア:革新的なフィットネス哲学と運動療法

ジョセフ・ヒューベルトゥス・ピラティス(1883年12月9日 – 1967年10月9日)は、フィットネスの新時代を築いた革新的なトレーナー、作家、そして発明家です。ドイツ出身の彼は、自らのフィットネス手法「ピラティス」を創設し、世界中に普及させました。今日、ピラティスは全世界で行われる人気のエクササイズとなっています。

病弱な少年期からの転換

メンヒェングラートバッハ生まれのジョセフ・ピラティスは、幼少期に喘息、くる病、リウマチ熱を患いました。この病弱な体を克服するため、彼は体操やボディビルディング、さらには東洋武術に励むことで、身体能力を格段に向上させました。14歳には、すでに健康的な体を手に入れ、解剖図のモデルになるほどでした。
お父さまが体操選手、お母さまが自然療法師だったことが、幼少期の病気の克服から、フィットネスへの関心が繋がっていたのだと考えられます。

第一次世界大戦中の創意工夫

1912年にイギリスに移住したピラティスは、プロボクサーやサーカスのパフォーマー、護身術トレーナーとして活躍しました。しかし、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ国民としてイギリスに抑留されることになります。その抑留中に、彼は看護師のような働きをしていきます。彼は共に抑留されている人々や戦争による負傷者に向けてフィットネスプログラムを指導しはじめます。これが、ピラティスの基礎となっていきます。また、寝たきりだった方へのサポート方法などを確立し、それは現在「キャディラック」と呼ばれているベッド型の器具の基礎になっています。
そして、1918年にスペインかぜが流行しますが、彼とともに運動を続けた仲間達は誰一人としてこの病に倒れる人はいなかったといわれており、後に様々な人によって語り継がれる伝説となっていきます。

アメリカへの移住とピラティスメソッドの確立

1925年にドイツ政府から新しい軍隊の訓練を頼まれます。ピラティスは、当時のドイツの政治的傾向を好みませんでした。ボクシングヘビー級世界王者となるマックス・シュメリングなどに渡米をすすめられ、移住します。
そのアメリカへ向かう貨物船で、クララ・ゾイナーという看護師と出会い、一緒にピラティスメソッドを広めていきます。ピラティスはドイツですでに二回結婚していたので、クララさんとは籍は入れなかったとのことですが、二人でニューヨーク市にピラティススタジオを開設し公私ともに2人で過ごしていきます。そのスタジオで、ピラティスは、ダンサーや舞台芸術家を中心に多くのクライアントに指導を行いました。彼の開発したエクササイズ機器は、後にリハビリテーションやフィットネスの分野で広く使用されるようになりました。

遺産と影響

ピラティスは1967年にニューヨークで進行性肺気腫のため亡くなりましたが、彼の運動法は「ピラティスメソッド」として現在も世界中で実践されています。彼のメソッドは、身体のコアを強化し、柔軟性とバランスを改善することに焦点を当てており、現代人の生活に適した健康法として、今なお多くの人々に支持されています。

ジョセフ・ピラティスの生涯と業績は、フィットネスと健康の世界において革命的な影響を与え、彼の哲学は次世代のトレーナーや療法士に引き継がれています。彼の創始したピラティスメソッドは、ただのエクササイズを超え、心身の健康を統合するライフスタイルへと未だ進化し続けています。

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