明治のナイチンゲール 大関和 家老の娘が、「命を売って金もうけする卑しい人間」と言われる看護師の価値を唱えた

ごきげんさまです。感護師つぼ(Twitter)(Threads)です。

看護師の可能性を拓くのに、すでに新しい道を切り拓いている方々の活動を知ることが第一歩だと思っています。

今日は、関東大震災が起きてから100周年の日です。(黙祷)
100年前に最も活躍し、「日本のナイチンゲール」とメディアで称賛されていた大関和さんを今回は取り上げます。
※大関和さんの看護の先生は、ナイチンゲール看護学校1期生のアグネス・ヴェッチさんです。ナイチンゲールの正当な孫弟子♪

次の関東大震災は100年後でしょうか?

関東大震災(1923年)、その前は元禄関東地震(1703年)、明応関東地震(1495年)、永仁関東地震(1293年)と約200年の周期で発生していると言われていますが、関東大震災から学んだ私たち現代人は9月1日を防災の日として制定しています。

改めて、備えあれば患いなしと気を付けていきましょう

ちなみに、今日は、Amazonで防災グッズ、セールしていました。我が家は、昨日少し防災グッズ確認したところ、チャッカマンの燃料が足らなかったので、この機会に補充予定です♪

大関 和(おおぜき ちか)1858年5月23日ー1932年5月22日

【所属・肩書】

【資 格】看護婦
【出 身】桜井女学校付属看護婦養成所1期生(現在の女子学院、ちなみに女子学院に看護学部は今ありません。)
【臨 床】東京帝国大学付属病院(現在の東京大学病院)看護婦長、
【教 育】高田女子高等学校(現在の上越高等学校)、東京看護婦会会頭、知命堂病院産婆看護婦養成所
【経 験】日本キリスト教婦人矯風会理事、大日本看護婦人矯風会創設者(日本で初めての看護団体)、大関看護婦会創設者
【執 筆】派出看護婦心得(1899)、実地看護法(1907)

キャリア:関東大震災から100年、ナースの尽力を称える — 大関和の活躍とその遺志

今日からちょうど100年前の9月1日、東京・飯田橋付近で大震災の猛威により傷ついた多くの人々を助けたのは、白衣の女性たちでした。その中心には、「日本のナイチンゲール」と称された大関和がいました。

看護師、現代ではこの職業は高度な専門知識を持つ者たちが患者の命と向き合い、その回復を支えるものとして認知されています。しかし、大関和の時代には、看護師は「命を売って金もうけする卑しい人間」とまで評される存在でした。

黒羽藩の家老の娘として生まれた大関和は、若くして結婚するも、後に離縁して上京。そこで彼女は、アメリカ人宣教師たちによる「桜井看護学校」(現在の女子学院)で最先端の看護学を学びました。この桜井看護学校で看護を教えていたのは、アグネス・ヴェッチさん。ナイチンゲール看護学院の1期生です。なので、大関和さんは、ナイチンゲールの孫弟子にあたりますね。

大関和さんは、得意の英語を生かし、看護を学んでいき、31歳の1888年(明治31年)に看護婦の資格を取得しました。近代教育を受けた初めての日本人看護師の誕生です。その後、東京大学医学部附属病院の看護婦長として活躍しましたが、自立して活動する姿勢は時に医師との対立を生むことも。しかし、彼女は譲らず、独自の道を切り開いていきました。

明治42年、彼女は「大関看護婦会」を設立。クリスチャンとしての信念から、遊郭からの脱走者たちも積極的に受け入れ、看護師としての再スタートを支援しました。このようにして、大関和は看護の価値を社会に示していきました。

関東大震災の際、すでに体調を崩していた和でしたが、多くの傷ついた人々を助けるため、他の看護師たちと共に奔走しました。彼女たちの存在は、多くの人々にとって救いとなりました。震災の中で、彼女は看護師としての使命を最後まで果たしたのです。

このように、多くの困難や偏見に立ち向かいながら、日本の看護の礎を築いた大関和。彼女の活動は、私たちにとって大きな遺産となっています。彼女の尽力に感謝しつつ、今日この日を迎えたことを心から感謝します。

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